
『 泣き虫なまいき石川啄木』
作 井上ひさし
演出 段田安則
@紀伊国屋サザンシアター(10/20)
これは、わたしにとって、サクサク噛みごたえが
あって、なおかつ、とても消化のよい(よすぎる)
舞台でした。
幕が開いて、一場面がおわったところで、
日本家屋セットのふすまをパッとあけ、
着ながし姿で登場したのは、
石川啄木・・・稲垣吾郎
あ、“坊ちゃま”登場の記憶とかさなる。(今年5月の稲垣舞台)
これって、〈吾郎、文学青年になる@舞台〉の2011年第二弾か・・・。
はじめのうちは、あの坊ちゃまと、イナガキ啄木が、
ほとんど同一人物にみえたと言えば言えなくもない・・・けれど、
その存在に、とくに大きな違和感もないみたい。ふしぎ。
(このドラマが歌人の一代記というより、
ひとつの家族劇になっているからでしょうか)
そもそも、
“存在感”というのは、ふしぎな言葉。
ひとは、もちろん、その場にないものにも、 “存在”を感じるでしょ。
(不在こそが、ときには、もっとも大きな存在にもなる)
それに、“舞台上の存在感”と、“日常の存在感”は、とうぜんちがうもの。
わたしたちは、ふだん、
もし、自分の進路に、“舞台上の(非日常の)存在感”をもつような、
なにものかが立ちはだかってきたら、困るでしょ。
でも、この『泣き虫なまいき石川啄木』の啄木たちが、そのまま、
日常に下りてきても、たぶん、じゃまにならない。かさばらない。
(ちょっとうるさいけど)
父・一禎・・・段田安則
母・カツ・・・渡辺えり
妻・節子・・・貫地谷しほり
妹・光子・・・西尾まり
わたしがみたところ、この石川家の基本図は、
父は、上手側につきだしたものほしで、目をとじて瞑想。
そして、主人公啄木は、下手側の文机に向かって、
家中の騒ぎに背を向けた姿勢をとっている。
この左右両極に距離をとった2人のかたちが、ブックエンドみたいで、キュンとなる。
ともに社会から疎外されつつも、
自分の世界をなんとか誇り高く守ろうとしている。(ちょっとズルくて、
でも、にくめない)
舞台中央でくりひろげられるのは、
母・妻・妹たちの愛憎。そこに、啄木の才能を信じる友人
金田一京介・・・鈴木浩介
が、足しげくやってきます。(あ、猫的存在?)

『泣き虫なまいき石川啄木』は、1986年に初演。
(『キネマの天地』なんかと同じ年)
一人の人物の実人生を、作者井上ひさしが独自の想像で
ふくらませてみせるタイプの作品です。
この “井上流評伝劇”っていわれるものは、いつも、
なんてソウルフルで、キラキラしているのでしょう。
(『道元の冒険』なんかの一代記ものがすき)
この戯曲には、作者自身の妻の不倫騒動の顛末が書き込まれているという。
けれども、そんな同時代のスキャンダラスさは、今回の上演では
感じられませんでした。
歌人の啄木も、学者の金田一も、
妻のあやしげな行動に悩まされます。
金田一は、妻に、
「あたしは、学者より、役者が好きなのよッ!」と言われたと大泣きしたり、
当時の“キリスト教女子教育”を受けた光子と、啄木は、イデオロギー闘争したり。
明治の社会制度の下、
この家族の男女の会話は、 時代をこえて、なかなかホット。
啄木の死後、結核の妻は幼い娘をつれて、
海辺に暮らすことになります。啄木がつづった日記を胸に抱き、
もういちどあたらしく生きてゆこうと決める。
海のほうから、おんなのこの明るい歌声がきこえてくると、
かき割りの向こうに、ほんとうに海がたっぷりとひろがっているように
みえるのでした。
演出も手がけた、父役の段田世界が、はんなり(?)しています。
どうしようもないのんべえのお坊さんだけど、家族の要になっている。
“京風の盛岡弁”という感じのせりふ、ききやすかったです。

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