『サド侯爵夫人』言葉・顔・女性

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『サド侯爵夫人』
作 三島由紀夫
演出 野村萬斎
@世田谷パブリックシアター(3/5)



ナイスキャスティングの『サド侯爵夫人』、
劇場に直行です。




ルネ・・・蒼井優
モントルイユ夫人・・・白石加代子
サン・フォン伯爵夫人・・・麻実れい
アンヌ・・・美波
シミアーヌ男爵夫人・・・神野三鈴  
シャルロット・・・町田マリー




あの夜の『サド侯爵夫人』(時空限定)といえば、
まず、舞台をみていて、例のミシマ式怒涛の言語世界に、
どっと疲れる、くたくたになる~という感じが、それほどなかったような。
フレーズを伝える抑揚や、意味に合わせた所作ーー
その細やかさ、やわらかさ、美しさにすーっとひき込まれました。
もちろん、
各登場人物が、膨大な数量の言葉と闘い抜いていました!
舞台と客席は、 きわめて“ストイック”な時間を共有したのです。
(ただ、とにかく・・・ルネといえば、ここ数年、わたしの認知体系(?)は
篠井英介ルネ、東山紀之ルネの “不思議すぎるヴィジョン” に完全に
操作されていたのですから。
それぞれの舞台や、演技自体を比べることなんて
できない(しようとも思わない)けど、
こんどの蒼井優ルネをさいしょにみた瞬間は、
ルネってこんな感じ・・・って、ちょっとほ~っとしました)


ほ~っとしたのは、つかのま。
若くして、青冷めて秘密めいたルネと、世間知を駆使するモントルイユ夫人。
奔放な、ルネの妹アンヌ。それから、超かっこいいサン・フォン夫人に、
信仰篤いシミアーヌ夫人、しっかりメイドのシャルロット。
この、フランス革命前後を生きた個性的な6人の女性がすっかり出揃うころには、
舞台上は緊張のビームだらけ。


今考えるに、この舞台の独特の緊張ポイントは、やっぱり、
顔&衣装・・・ネ。
(あのミシマの言葉の重力を昇華するものとして)



衣装は、おや?(半田悦子) 
『サド~』の時代背景にそのまま沿ってない。
現代っぽい。というか、どことなく日本のバブル期の匂いも。
好きだったのは、幕開きのサン・フォン夫人の乗馬パンツ。
明るくなる前の舞台に、手にムチをもってシュッと立つシルエット、すばらしい。
重たいドレス姿じゃないサン・フォン夫人に、
悪徳の香りがビビッドにただよいます。
アンヌは、ショートヘアーでミニスカート。
モントルイユ夫人の和服調ドレスは、
ちょっと翻案マクベス夫人みたい・・・計算された悪趣味というのとも
またちがった違和感をつくることが目的?



絢爛豪華なんかじゃなくて、スモーキーなムードの舞台。
奇妙な原風景を思います。
舞台は、高次元のヴィジョンに果敢にとりくみながら、
大文字の『サド侯爵夫人』と小さな感情のつながりを、
ていねいにつくっている感じ・・・これみよがしじゃなくて。
それで、先日の『萬斎解体新書~その弐拾~』(4/5)のトークで、
『サド~』の話が出てフムフムとなった。
“価値観が多様化した社会に生きながら、
大きな危機(自然と人間の対峙)を経験した日本人の心は今、
なんらかの“シバリ”を求めている・・・”  by萬斎
とくに、“言葉による緊縛”が、今回の演出のテーマ。 
ってことは、あれは、18世紀ヨーロッパよりも今の日本のハートに寄りそう
“シバリ”のモードだったのかしら。
6人の個性のちがいをはっきりみせるモードでもありました。
コルセットいっぺんとうでもなく、
ボンデージ、あるいはレディー・ガガ風でもない。中心のない、グレーと赤の悪夢。

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やっぱり、女性が演じる『サド~』では、女性像が“生き生き” 。
各キャラが直立、正面向き、横並びで一気に語るシーンが多いということでしたが、
感情をのせたアクションも印象的だったのです。
(アクションはもうすこし少なめのほうが、言葉の骨格がみえてよかった気も・・・)
わたしが、緊張に囚われたのは、6人の表情筋の中に、
“観念上の女性(ミシマがつくった)がしっかり棲みついている!” とみえたとき。
研ぎすまされた言葉は、ひとのなかにあらたな人格を生む・・・ひとは、言葉によって
顔から生まれ変わるのか。言葉・顔・女性・・・この3つの組み合わせが、
いろんな出来事が起こる“タイミング” を決めていくのか。
さらに、6人の顔のサイズがとてもバラバラ。これにも、
なにやらそわそわしました~。



第三幕はじめの、
しずかに刺繍をしているルネ(ウィッグをとり、ウェービーヘアーに)のなかには、
たくさんの時間と言葉がとじこめられているようでもあり、
からっぽのようでもあり。
そして、今回の舞台のルネが針を刺す布の色は、黒。
ひととしての自信をすでに身につけた民衆代表シャルロットと、
社会を捨て、自分の“心のサド侯爵” を守ると決めたルネ。
2人のさいごの短いやりとりの、微妙なリズムが好き。
(男性キャストとちがうリズム)



なんと、さいごのさいごの瞬間に、
蒼井ルネ、にっこりフェイスなんです。顔だけが、闇にぽっかりと。
真実の、まっすぐな狂気の成就。
母モントルイユ夫人は、ちょっとおおげさな、一語ごとに玉手箱をあけて
ギョッとなるような語り方。萬斎演出による白石世界って、大好きです。
麻実サン・フォン夫人は、こわい。けれど、シャンソンみたいに優しい。
美波アンヌの、キレイな鳥のような発語感。
町田シャルロットの若々しい姿勢。
あと、これまでわたしは、この戯曲で、
つねに神の僕たろうとするシミアーヌ夫人は、
重要だが、どちらかといえば一面的に扱われていると思っていました。
けれど、今回の彼女っておもしろい。三幕の独白(神野節?)が、
たっぷりきこえました。貴婦人から尼僧になった彼女。
その心をパーッとオーバードライブさせちゃうものも、また言葉!







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『テ ヅカ』  ウニウニデヴィジョンヲツナグ  

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『TeZukA』 
振付 シディ・ラルビ・シェルカウイ
@オーチャードホール(2/26)








久しぶりの、ダンス舞台。

ヨーロッパで活動するダンサー・振付家の
シディ・ラルビ・シェルカウイが、
手塚治虫漫画への個人的愛着を込めてつくったのが、この舞台『テ ヅカ』。
作品全体に、東日本大震災以降の日本への
しずかな祈りがめぐっています。


まー、手塚作品、詳しくないわたし。
でも、この舞台に、アトムやブラックジャックたちが出てくると、
ほーお・・・と思いました。
(知っているキャラクターがつぎつぎとダンス!)
アトムのヘアスタイルが、
なぜか坊主になっていたのは気になったけど(?)

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欧米では、日本のサブカルチャーは、
今でもちょっとスノッブな感じに語られたりもするんだそうです。
一方、アジア諸国では、
テヅカは単純におもしろいから読まれてる・・・そんな世界の温度差を
ここで一回まとめるシェルカウイ。



インド系や韓国系の音楽。
それから、
“書” と “ダンス”のコラボ。
ダンサーの動きに合わせて、スクリーン上に書家のパフォーマンスが映ったり。
いろんな国籍のダンサーが一列になって、
「門前の小僧習わぬ経を読む」(シェルカウイお気に入りのことば)って、
半紙に筆で一文字ずつ書いたり。
文字を書く息遣いも、ダンスの一部にしちゃう・・・こういうみせ方って、
今までにもありそうだったけど、ここまで上手くスムーズにできてるのは
なかったのでは?



スムーズといえば、ダンスの構成舞台では、
一人or複数のダンサーの身体の動きは、
音楽的な法則とか、ドラマの必然とか、振付の偶然とか、
その他もろもろ・・・によって、
規則的に、とってもスムーズにつなげられてゆくでしょ。
からだと時間が、切れ目のない一枚の布みたいになるのがおもしろくて、好き。
それで、この『テ ヅカ』の、
『ブラック・ジャック』のパートの、
 “バクテリアのお話”のダンスは、その“切れ目ない感”が、MAX!
バクテリアという微小な生物の、複雑な知性について
論ずるダンスが、舞台一面に展開。
ウニウニウニ、ウニウニウニウニ、ウニウニウニ、ウニウニウニウニウニ・・・・
という感じで、
ひとりひとりバラバラな動きをしているようにもみえるダンサーたちが、
全体としてテヅカの宇宙(森山未来も、ダンサーとして元気に参加)を
つくっています。


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シェルカウイの父はモロッコ系、母はベルギー系なのですって。
多民族社会を語る意識モリモリ!みたいな彼。
テヅカの生命倫理を、
日本を含むアジア全体的な身体感覚をとおしてみせていたでしょうか。
自分の“内” に言葉を探るところは、ピナ(タンツ・テアター)に
似ているかも。
でも、それと同時に、つねに記憶の“外” に大小のヴィジョンを
交差させるところが、やっぱりピナよりもオトコの子っぽい感じ。
そういえば、日本の近年のマンガ史は、 
“手塚漫画の記憶 ”の外に出よう出ようとしてきた、ともいわれるみたいですが、
『テ ヅカ』をみると、
過去(古い)/現在 (新しい)のラインは、今いつも揺れるているんだナ・・・と
気づきます。
欧米から、そしてアジアから、もういちど逆輸入された“自分”が、
なにかに化けそうなリアリティー。

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『トカトントンと』ガリガリと

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地点『トカトントンと』
原作 太宰治
演出 三浦基
@神奈川芸術劇場(2/12 )







パイプ椅子が並んだ小さな客席。小さなステージ。
ステージ奥の壁は、銀色の小さな鏡をたくさんつないだみたい。
壁の向こうから風を受けて、鏡の一枚一枚がキラキラキラ。
おや、これは、
小さな東京ガールズコレクション・・・?
それとも、ピカピカのコシヒカリ・・・・?   じゃなくて、
5人の俳優たちが、前にうかびあがったり、後ろにねっころがったり。
アースカラーの、つまり地味な、つんつるてんっぽい着物。
この春のテーマは、〈和・亡霊・子供〉・・・みたいなモードの5人が
太宰の短編『トカトントン』の“テキスト”を不思議に発信する。



不思議・・・っていうのは、つまり、この場合、
“言葉と身体を分ける系演劇”に入るってこと。
たとえば、テキストは意味とは関係ないところで区切られて、
音声として発せられる。ゆるやかなダンスのような身振りに、感情がのせられる。
奇妙に、痛々しいような、
それでいて、どこかひとを食ったような・・・“地点”の、クリティカル舞台。
それでも、今回は、
ある意味、今までよりも、わかりやすいラインを押し出すことにしたのかな。
これは、攻め?守り?それとも、自然な流れ?



どっちにせよ、
“地点”って、dolly・・・あらためて思いました。
それは、
ひとがふつうはしないことを、あえて、テッテイ的にやりとおすーーそのためには、
人間離れしてるくらい鍛えられた魂を描きつづけるーーというコードで、
dollyといいたくなるみたいな。
まー、人形は、べつに人間離れしているわけじゃない。
人形は、もともと、インディペンデント。
だからこそ、“人間の演劇”と“人形” の出会いには、
凄惨なくらいのザラつきがチラッとみえる・・・はず。



あ、でも、今回の舞台は、わりとツルンとしてました。
一人が発したセリフのすぐあとに、
もう一人が、「嘘です、きゃははは・・・」って合いの手を入れていく、あるいは、
タイトルの、あの“トカトントン”・・・・を実際に木槌みたいなもので
脳髄に響かせつづけるというアイディアは、“人間向き”。
戦後の日本社会の虚無をみつめた原作の、一個の悲痛な表情が、 
分解されて、説明されている。(単調になってしまっているかも)


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それで、このドラマでは、『トカトントン』の男性主人公が、
あるときから、『斜陽』の女性主人公に、ふにゅー--っとシフトします。
10代のころ、『斜陽』のヒロインに恋したことを思い出して、おもしろかった。
後半は、やっぱり、
“地球は女で回っている” 的な結論になだれこむ感じ。ガリガリしています。
いわゆる“反復の徒労による思考停止”をすりぬけるものとして、
ラストにはバカボンみたいな男の子が登場。(ヒロインの恋の結晶)
隣席の老婦人は、大きく拍手。わたしは・・・ちょっと、うーん
(というか、この子だーれ?)



 “地点”には、やっぱり、これからも今以上に、
言葉の輝きを大切にしていってほしい。
世界の“外”から自由を着こなす詩的身体と、
へんてこで、おいしい炊きこみごはんみたいなものを、つないでネ。




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『金閣寺』 両眼をオペラグラスにして夢みる

『金閣寺 ーTHE TEMPLE OF  THE GOLDEN PAVILIONー 』
作  三島由紀夫
演出 宮本亜門
@赤坂ACTシアター(2/10)

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これは、たぶん、わたしの
〈2012年にみた舞台ベスト3〉に入ります。きっと。
すでに昨年、日本とニューヨークで上演されている舞台。
(今回は、凱旋公演の余裕も感じられたかな)


① 少年とホーメイ

主人公の溝口少年は、
自分のコンプレックスを、高次元に昇華させるものとして、
金閣寺を崇拝。信仰にも似たそのきもちは、
ドラマの最後を炎に包みこむーーというわけで、
この舞台には “金閣寺の声”がとどろきます。
信仰とは、“天の声” をきくこと・・・つまり、
少年にだけみえる “金閣さま” みたいな存在があらわれて、
少年に圧をかけます。


溝口・・・森田剛
金閣さま・・・山川冬樹


この2人の、声の出会いはおもしろいな。
坊主頭になって、吃音の少年を演じる森田ヴォイスは、
意外にも(?)ふわっとしていて、
関西弁ともマッチ。
慟哭のなかにさえ、どこか明るいト-ンをきかせるみたい。
長黒髪の、山川ヴォイス(マイクを使っての、
ホーメイなどのパフォーマンス)は、自在。 
演劇に組みこまれると、
やや平板にみえてしまうオソレもある
パフォーマンスの形式(アジアンテイストになってる)も、
このミシマ舞台では、自由な感じです。



② ノミトリマナコ(?)とトンボノメガネ

オープニングのセットは、“教室的” になっている。
原作の世界に入るまえに、わたしたちに、もういちど、
“学生時代”を思わせるみたい。生徒の年齢層がひろいところは、
夜間中学とか大学の社会人オープン講座みたい?とも思いました。
マイクを使った原作の朗読スタイルから、ドラマはじょじょにスタートします。
机や椅子の配置がダイナミックに組みかえられ、
生徒たちがストーリーの登場人物に変わってゆくのです。
とざされた無名性がうごいてく--辛気臭くて、ワクワク~。


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主人公の森田剛少年、じゃなくて、溝口少年。
地味。いつも、もにょもにょ考えてる。
なにかにつけて、あたまのなかの“金閣さま” が出てきて、
「ビヨ~ン、ビヨ~ン、ビヨ~ン・・・」という声のホーメイ攻撃をかけられる。
そうかと思うと、とつぜん、みずから危険な行動に。
その行動力は、 まるで “東洋のちいさなゴブリン” 。
ひとつのことをずっとみていると、
あるときふっとトンボの複眼を得る・・・?



③ゆかしい 

そんな溝口少年は、世界と距離をおきながら、
少ない友人とつながります。

鶴川・・・大東俊介
柏木・・・高岡蒼甫

彼らの孤独は、アップダウンありの、
二転三転ありの歪んだ軌道にのって、結局バラバラに着地。


そして、金閣炎上シ-ンは、真っ赤。
すべてのものがとりさられた舞台に、
“溝口ゴブリン”  vs “金閣さま&山海塾風ダンサーズ”の脳内バトルが
ひとときのあいだ、うかびます。
次の瞬間、
彼は一人、タバコに火をつけるのです。
そのとき彼は、透明な、
しずかな空気の結界にぽつんっと包まれているようにわたしにはみえました。



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最後の最後に、もういちど、客席に向かう3人。
「生きよう」
溝口ゴブリンの、「生きよう」は、
今までと変わらず、もにょもにょしてるようでいて、
それでも、しっかりひびいてきます。 思考と情熱が、しずかにまざりあった表情。
あー、オペラグラスを忘れたことを悔やみながら、わたしはシートから
身をのりだしたのです。
力を内に秘めながら、さりげなく、おくゆかしいようなステップで舞台を下りた彼は、
客席最前列の空席に座るーーライトが落ちて、幕。



溝口少年が想いをよせた美少女と、
彼女に瓜二つの未亡人(中越典子、二役)は、ともに悲劇的。
キーンとひびく声が印象的です。
自分の知っている美のコードともいえるものに、
毒されたともいえる女性の、あやしい気性も感じられました。
たとえば、NY仕様のこの舞台は、
日本文学のなかの美のコードと
なにもないファンダメンタルな空間の
コントラストがつくる小宇宙・・・美意識と市民感覚が、上手にぐるぐるなのです。



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『下谷万年町物語』の運動会   

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下谷万年町物語』   
作 唐十郎
演出 蜷川幸雄    
@シアター・コクーン(1/12)



85年、唐・蜷川コンビで初演の作品。
今回は新装シアターコクーンのこけらおとし公演になりました。
3幕仕立てで、休憩2回の長丁場。



舞台は、昭和23年ころの、下町の男娼街。
ひとつの場所にひそんでいる記憶が、ほりおこされます。
男装のストリッパー・キティーお瓢(宮沢りえ)は、
1幕のさいごまで客席をジラしてからの登場です。
グリーンに濁った池の底から、洋一(藤原竜也)のお姫さまだっこで
ザブーンと上がってくるときは、昏睡状態。びしょぬれのからだは、
まぶしい純白のパンツスーツに包まれてだらーんとなっています。
そこに、ここぞとばかりに当てられるスポットライト。衝撃的。
とにかく “謎の紅一点=はきだめの鶴感” 満点!
「死にそこなって、すいません・・・」
まさに鶴のような彼女の一声。息をのむ男娼たち。そして、いったん幕・・・
ねー、魅せるでしょ。



またまた“水がとびちる系” の蜷川舞台。
あと、“ふうっと奈落に消えたひとが、
ぱっと舞台上の別のところから現われる系”。
空間移動のトリックが、思っていたよりキラキラしてました。
2幕以降は、キティー・ 洋一・文ちゃんの3人が、猛スピードでかけぬけます。
洋一は警察に追われる身、
文ちゃん(西島隆弘)は学生で、
ドラマの冒頭で過去を追憶する中年の男(作者自身とかさなる)の
少年像になってる。



キティーは、レビューの演出家であった恋人を、洋一にかさねて言います。
「いまから、あたしが、あなたをやる(演る)・・・(あのときのように)」
そして、その想いを果たすべく、3人は、
レビュー劇団「さふらん座」を立ち上げるけれど・・・社会的足場がよわく、
残酷な運命に囚われてゆく。
3人の出会いとつながりを、特別なものにしたきっかけは、
洋一と文ちゃんの手の指が6本あるという事実。ふしぎ。
その6本目の指がターンテーブルの上で血まみれになったり、
からだに空気を注射したり・・・“ことばを超えた触れ合いの感覚”を、
こういうモードにおきかえるのって、なるほど、かなり
80年代らしいかな?
というか、モードっていつの時代でも、
ある意味めんどくさい&厳しいものにもなる。
自分に正直な3人の受難を思うと、
(人生の)おしゃれ優等生にガマンはつきもの・・・なんて、
ちょっとくどいくらいのメッセージもやってくるみたい?
舞台奥のとびらがひらいて渋谷の街がみえるのは、コクーンの十八番ね。


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おネエグループは、つねに半裸 or怪奇花魁モードです。
パフォーマンスは、見事に記号的。           
それで、彼らのショーを支える、
リーダー格のお春さん(ワンピ-スおばさんキャラ)が、初めはなぜか2人いる。
やがて、本物のお春さん(大門伍郎)が、
ほつれ髪和服おばさんキャラに変わり、
グループの仲介役に。もう1人(沢竜二)はそのままグループのリーダーに。
集団が再組織されるような展開があります。
記号とか標識っぽいものが実はちょっと苦手なわたし~●□▲×◎?でも、
イケメンモードのキティーのこころの叫びには、ひきこまれました。
戦争中に失った恋人を探すキティーが、歌うように語る言葉はすべて、
切々として、哀しく、美しく響きます。



初演当時はファンタジーだったものが、
今は日常(インターネットの消費社会など)になっている、ということも
深く感じさせられました。
このところ、どんどん年齢不詳度を増しているような、怪しい藤原演技。
ふしぎなほど役にはまっている西島演技。
この2人の存在の距離に挟まれて、100%身体で語るヒロインは、
さいごには儚く美しくうたかたに消える・・・そんな“みんなの運動会” ・・・
・・・みたいな物語に、
ノスタルジーとかアンチテーゼとかを託そうとする発想そのものには、
わたしはあまり共感できないかな~。


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きもちがうごいてる

短歌、10首。

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きもちがうごいてる
         


        ━━ツノダさん(飼い猫のなまえは、リンドバーグ夫人)なら、
            草月流会場にいます━━

     

     

     それを私にいきなりくれたひとがいる うすいそばかす 理由もなしに




     青い青いおおきなボールのある部屋に入るとわたしはとても小さい     



     

 

     拡声器 アナログテレビ さかだちのアタマたちどしゃぶりを聴いてる

 

 

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     神様が真っ赤になって笑っているそっぽ向いてる きもちがうごいてる




     かなぶんを1匹どこかに投げますと闇夜はそのままキープされます
     



     
     このままでこの世をよしとは思うまじクインシー・ジョーンズ本日更新



20123

     




     アイディアを即却下され十五夜に教室みたいな顔をしている




     むくむくの盛り髪くるりの巻き髪をするものを思想犯とよぼうかな




     訛らない訛りのようにひそやかにとけだしてゆくよろこびの連鎖



20123




   ストローをシューッとならしてのむひとはもうすぐ異質なものになります


                                   
                                      

                                   (歌誌『かばん』掲載)


  20123  20123  201232012320123





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『ロッキー・ホラー・ショー』を受信

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『ロッキー・ホラー・ショー』
作  リチャード・オブライエン
演出 いのうえひでのり
@神奈川芸術劇場(2011.12.13)







2011年は、はじめとおわりに、
“ロック系ミュージカルのクラシック”にふれた年になったのは、おもしろかったな。
1月にみた舞台版『時計じかけのオレンジ』の、
原作映画が、1971年公開。
そして、12月のミュージカル『ロッキー・ホラー・ショー』が、
1975年ロンドン初演。
(映画『ロッキー・ホラー・ピクチャー・ショー』も1975年公開 )
2つとも知ってはいたけれど、
今までみる機会がなかったもの。(“同世代” じゃないです・・・)
そんなこんなで、他の観劇もふくめて、
あー、なるほど・・・となる1年でもありました。



初日から、三日目の公演。
客席にはかなり若いひともいましたが、やはり全体の平均年齢はすごく高い。
ふわふわエプロンにミニスカートの
ポップコーンガールたちが通路を歩いて、ポップコーンを販売。



そのポップコーンガールの一人が、
まずは幕開きに、赤い緞帳の前で、あの、
“♪science fiction~、double feature~ ♪”
っていう歌をうたうのでした。
もちろん、世界各国の演出家が、いろんなふうにオープニングを
つくっているみたい。
今回は、キュートなコスプレ風。うたの途中で “カラス声” になるのが
ポイントかな。



「俺たちの聖典をみせてやる」(キャッチコピー)
ということで、“学園祭ノリ” でロックに騒ぎまくるらしいと聞いていた。
でも、あの別珍っぽい重たい緞帳の感じは、学園祭っていうより、
“ひなびた学芸会”の匂いがしみついた感じ。そこが、チャーミング。
(ああゆう緞帳って、寡黙でありながら、
批評精神とか、無常感すらかもしだすもの。緞帳、ラヴ)



嵐の夜、人造人間をつくるマッドサイエンティストの
フランク・ N・フルター(古田新太)が、
アメリカのお手本的グッドカップル( 中村倫也 ・ 笹本玲奈 )を
堕める・・・アダムとイヴや、ヘンゼルとグレーテルのお話も下敷きになっています。
(いのうえ演出は、昭和特撮ヒーローもの風味もあり)



この舞台を、“芸術劇場” と名のついた空間のシートに座ってみている自分が
ふしぎ。
 「はい、ここでみんな盛り上がりましょう」っていうところが
ハッキリしてる。
まあ、どんなミュージカルでも、
好きなシーンの好きなナンバーをたのしみにしてみるのが醍醐味ですものね。
ただ、青春期にこの作品に出会ったひとも、今は“大人モード”。
ロックコンサートみたいにスタンディングにはなかなかなりません。お静かでした。


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ストーリーは大ざっぱ、グラムっぽい儀式性がメイン。
こういうドラマには、もっと小さなスペースで出会わなければ
意味がないのかもと思いました!
(だって、たとえば、グラムロックの『ヘドウィグ~』なんかにある、
キュンとくるモノローグがないんですもの・・・)
というか、困ったことに、
実はこの舞台はそれほどおバカにも、クレイジーにもみえません。
ハイレグ&網タイツの古田フルターをはじめ、さいごは老若男女車椅子
入り乱れての、
乱痴気踊りとなるようすも、よくお稽古してある感じで、おっとりしているみたい。



わたしたちは、十人十色・・・いろいろなひとがいて、地球は回ってるーー
そんなような問題意識を、いまさら“伝える×伝えられる”ことが
ポイントじゃないと思います。
この舞台の初演当時タブーに近かった言葉や特殊な文化は、カタチを変えて、
今の日常のなかにふつうに、微粒子カプセルになって
溶けこんでいる。そう思うと・・・やっぱり、これは、「ホラー・ショー」なのだな? 
(あー、ホラーといえば、わたしは一応 『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』派。
子供のころからみていた“マッドデンティスト”のリズムがなつかしい )



この舞台には、これまで日本でフルター役に取り組んできた2人、
藤木孝とROLLYも別の役で出ています。
終演後には、3フルターズが舞台に並んで歴史の香りのトーク。
世代や背景のちがう3人が、
けっして談笑したり、誉めあったりすることなく、それぞれの
“マイ・ロッキー・ホラー・ショー”をパラレルに語っていた。



一緒にみたひとの一言・・・「フルターの踊りにバネがない!」
うーん、でも、“古田フルター” ならバネはなくてもいいんじゃないかと。
全体的に、あまりつよいビートは好きじゃないというひと向きの舞台に
なっていたでしょうか。
リフラフ(岡本健一)の叫びが、後方客席へも送信されました。


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あけましておめでとうございます!

             

            あけましておめでとうございます!




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                     2012年  元旦


              
 

 


 いいことはぷちぷちつづく。かずのこのつぶの数だけ瞬くまつげ

 

 

 たべものは愛しあってぶつかりあうおせちをみれば今わかること

 

 

                       (モナミのお正月の短歌)

                      




                今年もよろしくネ。     モナミ

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うさぎ

Usa

うさぎ、またね。

                              モナミ

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『その妹』 レトロでモードな❤

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『その妹』

作 武者小路実篤
演出 河原雅彦
@シアター・トラム(12/16)



おお、“白樺派”!
大正時代って、よくも、わるくも、
ロマンやノスタルジーの時代として、
振りかえられることが多い。
武者小路実篤は、“生粋のお坊ちゃま作家”
なんて、皮肉っぽくいわれる。
けれど、いつの時代も、ひとは、
ほんとうにクリエイティヴになっている(なろうとする)とき、
いつもまっすぐにある武者小路魂に、ある程度共感せざるを
えないのじゃないかな。   
(武者小路って、やっぱり、たしかに、
資本主義に収まりきらないドラマと “生命そのもの” を
つないだ作家の一人っていうことでしょうか)


M



客席をみわたすと、ひとびとは、 “高齢組 ”と“ヤング組”に
大きく分かれていたみたい。 
“いかにも“白樺研究、ン十年” 、“心は、今も新しき村に!” みたいな
白髪のひと、チラホラみかけました。
後ろの席の若いカップルは、どうやら妹役の蒼井優ファン。



戯曲『その妹』は、考えれば考えるほど、さみしいお話に思えるのです。
開演前、舞台に〈妹〉の大きな肖像画が掲げられている。
くぐもった色に、 深い想いを秘めた女性像がうかぶ。 
これは、社会の中で生きてゆく兄妹の姿を、
静かに、せつなくみつめたドラマ。
盲目の兄と、生きるためにのぞまない結婚をする妹ーー。
とてもかわいそうというか、
ほんとうに哀しいというか、
そこはかとなく怖ろしいというか・・・。小説『馬鹿一』なんかにみられる、
向日性をなんとなく思っていましたけど、作者の屹然とした人生観を舞台に
垣間見た気もします。 



ただ、人間のネガティヴ要素を、青空に投げて、
溶かすような “熱”が、この作品にはたしかにあるみたい。
つまり、観劇中わたしは、しんみりどころか、真正面からキュンキュンの連続。
それでいて、レトロムードがドリーミー。舞台の銀河を、あたまが浮遊。
(というか、“大正生命主義”のことばには、ダイナミックな空間感覚があるでしょ。
そのままで、現代のSF作品ともいえるんじゃないか、と・・・・・・●□!▲◎×?)



さあ、このキャスティングをみてください。
日露戦争で負傷、盲目となった画家・野村広次・・・市川亀治郎
広次の妹・静子・・・蒼井優
広次の友人・西島・・・段田安則
西島の妻・芳子・・・秋山奈津子
高峰・・・鈴木浩介
高峰の妻・綾子・・・内田亜希子
女中・・・水野あや
小間使・・・西尾まり

一見して、今年後半からのわたしの観劇をおさらいするかのような面々も。
(『キネマの天地』とか、『泣き虫なまいき石川啄木』とか・・・)



まず、広次は、視力を失う前は天才画家と評された。絶望から立ちあがり、
これからは小説家として生きてゆこうと決意。妹にたすけられながら、気を張って、
元気にふるまってもいる。妹を、不幸な縁談からなんとか守り抜こうとするも、
経済力不足。社会の中でのじぶんの力のなさに、
うちひしがれてしまう・・・そんな役。
映画ではかつて佐田啓二なんかが演じたそうです。この舞台の亀治郎広次は、
歌舞伎色。というか、ちょっと江戸の噺家のようなしゃべり方で、
“アート系”の繊細さはあまりみえない。 
広次の生来の素直さや、一本気なところはカラッと伝わってきました。
この舞台のレトロポイントは、衣装・セットだけじゃありません。
原作どおりの “セリフ・話し方” が、趣深いです。



静子役の蒼井優演技は、〈妹〉がもつ優しさと強さをしっかり
表現していたと思います。
結局、彼女は、周囲の状況をみて、
そのいや~な縁談をみずからの意思で承諾。(するということになっている)
自分と兄の生活を切り開いてゆくために。
〈娘〉としては弱くても、〈妹〉としては強い。兄の友人などと
まったく対等に(むしろ上から )
言葉を交わし、わたり合う様子がおもしろい。
“大正の、旧華族調の話し方”みたいなの
(「ごめんあさーせ」とか、「さーょなら」とか) も特訓したのかしら? スゴイ。
そう、あと、背の高い着物姿、かぼちゃ円盤型の髷、なにげない所作は、
けっして、“噺家の兄をもつ(?)、おゆうちゃん” に
なってません・・・演出家の目を感じました。



さて、小説家の西島は、
広次を文壇に紹介したりしているうちに、静子に恋してしまうのです。
例の縁談を阻止するべく、収入のとぼしい兄妹の自立をたすけ、
住まいと生活費を与えます。
そのために、実は自分の蔵書をほとんど売りつくすところまで、
静子に気持ちが
傾いているのでした。妻をもつ彼は、悩みます。
〈悩み〉は、大正時代のスパイス?


ふふ、段田・秋山夫婦は、絵になっていてかっこよかった。
夫(段田)は、『泣き虫なまいき石川啄木』のときの、
“ファンキーお坊さん”の爽やかさとは
またちがう、しんねりむっつりとしたムード。これも、ぴったり。 文士のことばも、
ききやすかった。妻(秋山)も、適役。 
夫の気持ちを知り情念をみせるところ、きれいでした。



ドラマの味わいをふくらませている、高峰夫妻の存在。
美術家の高峰は好青年のようだけど、自分勝手で頼りにならない、
彼自身に悪気はないとはいえ、
まわりのひとのきもちに無頓着・・・そんな感じが
よくでていました。(段田とともに 『泣き虫なまいき~』に出演していた鈴木。
このときは、鈴木が友人のためにお金を出す学者役だったけど、今回は、
“良心の演技”を段田に託したかたち?になって、
イライラする存在感がおもしろい)
広次は、チャーミングな高峰の妻にいまもむかしも、❤。



それから、西島家のお手伝いさん(水野)は、ちょっとの登場。批評的な役。
小間使(西尾)は、広次のめんどうをみる。(『泣き虫なまいき~』のときは、
“妹役” でしたね)




ということで、今思うと、これは、ごくあたりまえの “日本人の日常会話” を
美しく、わかりやすくきかせる舞台のひとつだったのかしら・・・。
その意味で、“現代口語演劇・・・静かな演劇”といわれるものの元のパワーに
ふれた感じもして、たのしかったのです。
といいつつ、わたし・・・
広次・・・ジョニー・デップ、静子・・・キーラ・ナイトレイ
とかのスクリーンもみてみたい・・・あ、ちがう?(笑)



演出家は、このドラマを、
「(妹の)身売りをめぐるお涙頂戴話」にしてはいけないと指導したそうです。
パンフレットでは、あくまでも静子は結婚を自分で選択したと強調されています。
静子は、現実をみて行動する女性・・・そんなラインです。    
でも・・・この舞台をみて、ほんとうはそういう“説明” は
当たらないような気もしました。      
この作品には、当時の男性中心の社会全体のしくみを
定点観測的にみつめるようなフレームがあります。
そこが、こわいところでもあり、また魅力的なところでもあるのではないかな。
(この芝居とは別に、なんだか今、
“マザコン”と “ヒューマニズム”ということばがごちゃごちゃに
なっている押し入れから、
“女子力 ” ということばをとりあえずひっぱり出してくるのは、つまらない)



『その妹』は、現代にも生きる、とてもボールドな作品とあたらめて感じました。
“人間のつよさ”は、
自分でもはかりしれないほど深い洞察に支えられている。
では、“作品だけが伝えられること” って、
どんなものだろう・・・来年の舞台空間にたずねたい。moon1



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