« 『敦』とトラヱさん | トップページ | Night And Day »

Day By Day 

 


 「今、私が歌いたいうた100」




2.♪Day By Day (1945)  


                作詞 Paul Westo
           作曲 Axel Stordahl ,Sammy Cahn      




 真野恵介は、吉田多摩子に、あくまでも軽い感じでたずねる。
  

  「ダイジョウブ?」

こむら返り。正式に言えば、腓腹筋痙攣(ひふくきんけいれん)。突然これが

起こったときには、はじめはとにかく息を止めて、何もしゃべらず、しばらくじっと

痛みに耐えているしかないのかもーーって、吉田多摩子は思っている。

多摩子の場合、ここですぐにパニックなんかになって、のたうちまわったり

しないように十分気をつけなければならない。意識が動揺すると、筋肉もさらに

興奮するもので、症状はどんどんエスカレートしてしまう。へんに自力で治そうと

するのはもっと危険なのである。かえって患部そのものを拡げてしまうことにも

なりかねないから。しばらくしたら、ゆっくり深呼吸。なるべく安静の体勢を

持続させて、焦らずに時をおく。


   「大丈夫?」
 

 今度はやや心配そうに聞いてみる、真野恵介。今、稽古場の床にごろんと

転がって小さくまるまっている吉田多摩子は、ピンクのジャージの上に、グリーンの

パーカーをひっかけて、なにかおちゃめな感じになってる。だが、よく見れば、

ひたすら痛みをこらえるその表情には、むしろハードボイルドな影さえただよう。

眉間にあらわれた一本のタテ皺が、みるみるうちに深くなり、いかにも苦悩する者

という風にもみえてくる。けれど、そんな多摩子をぼんやり見下ろして、恵介は

やっぱり暢気なような言い方をするのである。「大丈夫だよ。じっとしてればそのうち

ゼッタイ治るからねぇ」多摩子のケータイに来たメールを、代わりに恵介が

読み上げる。「えーと・・・〈小憎たちが暴れています〉・・・だって」今夜、多摩子の

二人の息子たちは母と実家にいる。5才の、一卵性双生児である。「〈おうちに

帰りたい、と言っています〉・・・だって」ここで、多摩子のあたまの上に、誰にも

見えない吹き出しが出る。
 

 【あぁ、魔法は解けてしまったみたい・・・】

駆け回る双子の5才児を静かにさせる魔法ーーというのが使えるのだと、

多摩子の母は常日頃から自負している。ただし、効き目がもつのはきっかり

15分、それ以上は何をどうやっても無理、とのこと。ふいに、真野恵介が、

窓のほうを眺めながら小さくつぶやいた。

 
 「また、戻って来てよ」

主に双子問題(?)なんかのために、この公演が終わったら、吉田多摩子は

劇団を去ることに決めている。という事実は、真野恵介にしかまだ告げられて

いない。
                 
 
                   ○
 

 
 真野恵介は、ちっぽけな航空会社の飛行士だった。空を飛んで10年目の夏、

飼い猫を失う、交通事故で。それから、空は猫の面影で充たされた。やがて、

猫の形がすっかり空に溶け込んでしまった頃、恵介は妙にハッキリした確信に

押されて、朗読劇の世界にとび込んだ。この稽古場に来ると今も、自分が

知らなかった言葉の航路が、目の前にスーッと開かれていく感じがする。ここから

なら、しずかな星々のあいだを渡って、もう一度猫に会いに行ける。
 

 (そういえば・・・)
 

 結婚前、恵介の妻はデートの待ち合わせに遅れることを、「星になる」と

言ったっけ。あの頃は、「星になる」のはたいてい自分のほうだったのだ。

もしかすると、今もーー。そう、たった今だって、自分は吉田多摩子の痛みと

沈黙のはるか上空に、たよりなく浮かんでいるだけみたいに思える。これは

これで、ある意味「星になっている」気分だ。チタン縁の眼鏡を外して、グレーの

Tシャツの裾でレンズを拭く。それから、今まさに沈黙の淵にある多摩子の傍らの

床に、ゆっくりと腰をおろす。一瞬、多摩子のツムジがぱっとピンクに輝いた。

(というか、「輝いた」と恵介は思った。もちろん、そのツムジからまた現われた

例の透明な吹き出しは、恵介には見えていない)
 

 【ふむ、カンタンはムツカシイ。ムツカシイはカンタン】
 

 今度の吹き出しの中に入っていたのは、多摩子がよく聴くソング・ライターの

カーリー山田(推定98歳)のつぶやきだった。
 


 【カンタンはムツカシイ。ムツカシイはカンタンーー確かにその通り。そう、ワシの

 場合、音と言葉は、ワシの中でいつも〈待ち合わせ〉しとる。若いカップル

 みたいにじゃ。それで、しばしばこの二人のどっちかが、すごく遅れてくる。

 けれど、二人は別に気にしない。どうしてかって?それは、うーん、つまり、

 〈待ち合わせの場所〉っていうのは、待ち合わせをした時点で、本当はもう二人

 だけのものになっているんじゃ。ってことは、二人はそれぞれの意識の中で、

 もうすでにそこを通り過ぎてしまっているともいえるわけで、そうすると、
 
 その場所は、〈二人がもうすでにいない場所〉ともいえるわけなんじゃ。

 (そこには、互いがかつて思い描いた、未来の痕跡があるだけ)それでも、

 ワシが歌えば、二人はどこかできっとまた出会えることになっとる。というか、

 ワシが歌うたびに、二人は何度でも初めて出会うんじゃ。】
 
 

 この完全に透明な、ちょっと偏屈な吹き出しは、たった今、さらに深まった

吉田多摩子の眉間の皺とは関係あるはずもなく、ここで、真野恵介は、自分でも

唐突に思えるような、それでいて完璧ともいえるようなあくびを一つした。それから、

寝転んだ。しばらく、こうして天井を眺めていよう。多摩子のこむら返りが治るまで。


 

15bungu_3
















|

« 『敦』とトラヱさん | トップページ | Night And Day »

うた100」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/86932/62608939

この記事へのトラックバック一覧です: Day By Day :

« 『敦』とトラヱさん | トップページ | Night And Day »