君は1000%


(今、私が歌いたいうた100)



♪君は1000% (1986 カルロス・トシキ&オメガトライブ)

                    作詞 有川正沙子
                   作曲 和泉常寛  




①グロー
 
 

     3月に入って、空が変わった。
 
猫のミテキ(漢字で書くと、美笛)が、

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耳にまるい風を通わせている。




②ストーリー
 
 
 オレは、両手の指を組み合わせてテーブルの中央寄りに

置く、という姿勢をとった。少し背中がまるまって、

いかにもこれから、相手が話すことに、真摯に

耳を傾けようとしている感じ。

 
 「ええ、話したいこと、いっぱいあるんです。でも・・・」


ここで、耳乃はいきなり、ためらいモードに突入した。
 


③スピーチ
 
 
 むかし、ラジオの長唄をきいていた祖母が、

10歳のガキのオレに囁いた。

「しゃべりたいのをガマンして、唄っていると

 ツヤが出るのョ・・・」

このフレーズが、どういうわけか、脳内をかけ回った。 
 
 あのとき、思った。オレの場合、逆にこれから、

唄いたいのをちょっとガマンして、しゃべるのだ。

きっと、ステキなことが起こるよ・・・。



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④グローの内在化
 
 
 気づくと、耳乃はソイ・ラテのカップの縁を

指ではじきながら、窓の外をぽーっと眺めている。
 
 「しばらくのあいだ、わたしがわたしの好きなことを
 
 あなたに話したい、それだけでいいです」

そんな耳乃の〈事前の希望〉をオレは完全に無視した。

耳乃は、唄うように去っていった。 
 


 O.K.!

そう、予定調和をくつがえして、

初対面の彼女の意識を、バッチリ掴んだ。

オレはインディペンデントで、

女性の美と幸福をサポートする、

〈独立ホスト ヒガシダニ・マサミ〉なのだ。
 
 
 
 午後2時、空中に、春の霞がゆわゆわ漂っている。

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Spring Can Really Hang You Up The Most



(今、私が歌いたいうた100)



♪Spring Can Really Hang You Up The Most                                                                              
                                                            (1955)
                      
                                            作詞
 Fran Landesman
                      
                                            作曲 Tommy Wolf 


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小鳥先生


あの日、マキオ先生は、校庭の木瓜の花の陰から

元気なさそうに現われた。でも、「おはよう」の声は、

いつもどおりに高く澄んでいて、美しかった。ただ、右の足だけ

靴じゃなくてサンダルを履いている。白い包帯の爪先が、

少し寒そうにのぞいてる。僕たちは、放課後、先生にかんたんな

松葉杖を作ってあげた。水やシリアルをもっていったら、

「サンキュー」と先生はついばむように平らげた。

翌朝、教室は騒然となった。窓辺に翡翠色の羽が散らかっている。

なにものかが永遠にとび去ってしまった気配もして……僕たちは、

空を見上げた。

「おはよう」高く澄んだ声が響いて、いつものドアから


先生がとび込んできた。

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The Nearness Of You



(今、私が歌いたいうた100)


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4.♪The Nearness Of You(1938)

                                
                                 作詞 Ned Washington
                 作曲 Hoagy Carmichael


  一週間ほど前、ボクは、旧い友人クサノと久しぶりに会った。

ボクらは、中2の冬、武道館でダリル・ホール&ジョン・オーツを

一緒に聴いた。その夜は、大雪で、九段から武道館の方へ歩くのに一苦労した。


  以来30年、このアメリカのデュオが日本でコンサートをする度に、

ボクらは一緒に出かけてきた。この前ボクらが会ったのは

彼らが前回日本に来たときだから、だいたい5年くらい前ということになる。
 
  「ホール&オーツ来日」の情報は、いつもクサノのほうが

いちはやくキャッチして、ボクに連絡してきた。高校卒業以来、

ボクらはこうしてコンサートのときだけに会う、ということを続けている。
 
 
 ボクらはコンサート会場で会っても、なんとなく互いの近況を

報告し合わないことになっていた。おまけにクサノときたら、

コンサートの終演後は、いつも口数が少なく、感想を語り合うこともなく

そそくさと帰ってしまう。だから、ボクはクサノが年相応に家庭をもっていて、

ナントカという機械会社に務めていること以外ほとんど知らない。
 

  2015年の東京ツアーは、「♪Man Eeater」からはじまった。

ボクの好みではないけれど、ノリの良い曲なのでいつも会場は盛り上がる。

ボクらは、背広の上着を脱いで、早速立ち上がった。


  「ホーーール!」

クサノは、真っ先に両腕を高く挙げ、大声で声援を送る。

おなじみの曲ばかりが、次々と演奏されていく。 

そして・・・

アンコールの最後の曲は、

今回は「♪ Praivate Eyes」だった。

この曲は、コンサートに集う常連のファンのあいだでは、
 
  「praivate eyes~(チャ

  
 watching you(チャチャ)」

というふうに、客席から手拍子で参加することが、恒例となっている。

ところが、ここのところ、この手拍子のテンションが

じわじわ下がってきているのではないか。かつての会場が

一体となるときのあの高揚感がだんだん薄れていっているのではないか。

正直に言って、

ステージ上のダリル・ホール自身の歌い方にも、弾む熱意がないというか、

むしろ、どこかやっつけ仕事的にこなしてるムードがあるというか・・・。

でも、落ち着いてもう一度よく考えてみたら、ボクがそんなふうに感じたのは

ちょっと違うなと、ふと思った。

そうだ、おそらく、ホール&オーツには、

「praivate eyes(私立探偵)」の旧いまなざしから、

ファンをいったん解放したいという思いもあるんじゃないかな。


  このコンサートの後、ボクはクサノを誘ってみた。

 「今日はゆっくり飲んでいかないか」

クサノもごく自然に答えた。

  「うん、そうだな」

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Night And Day




(今、私が歌いたいうた100)



3.♪Night And Day(1932)
 

                         作詞・作曲 Cole Porter





谷山一子先生


  先日は、お久しぶりに、偶然お目にかかり、とても驚きました。

あれから、小学校で教えていた当時のことを色々思い出しております。
 


  大学卒業後、私は、H小学校に3年勤めてから、Y小学校に

転任。ここで一子先生とご一緒になりました。

それからまもなく、結婚を機に教職を退き、その後はわが子の

成長と日々向き合っております。
 


  Y小に来たばかりの私がはじめて

お目にかかった一子先生は・・・

うすいシフォンの、ラベンダー色のワンピースに、真っ赤な

アーガイル模様のウールベストという不思議なコーディネートで、

後ろ向きに立っていらっしゃったのです。すでに教師歴三十余年の

貫録。二年生の担任でした。

先生がふり返ると、

金茶色に染められた縦ロール髪が揺れ、ガッチリの黒縁眼鏡が

光りました。

そして、口紅はワンピースと同じラベンダー色!



  先生は、運動するのは大嫌いのご様子。しばしば、「体育」は、

時間割から急に削除されていましたね。

(その日、先生がやりたくない気分の教科も!)

そして、あの膨大な〈宿題の山〉。あれは、言ってみれば、

小学2年生に徹夜をさせかねないくらいの、とにかく、

大変な量にみえました。 
 


  教師のあいだでもっぱら噂の種になっていたのは、

“一子学級”で、ひたすら実践されていたあることーー。つまり、

目をとじて、広大な宇宙に想いをはせる、

一子先生がおっしゃるところの「メイソウ」です。

 
 そんな時間は、子どもたちにとって、ひどく異質なものだった

ことでしょう。なのに、なぜか、あのひっそりと静かに閉ざされた

教室をとび出す子は一人としていなかった・・・。



 正直に言って、疑っていました、私。

「このような教師が公立小学校にいるなんて、おかしい。

ひょっとすると、このY小には、何か私には知らされない暗黙の

了解事項があるのだろうか・・・」

もしかすると、一子先生は過去のどこかで、

あの “児童中心主義の教育の理念”を一度すっかり

捨て去っていたーーそして、教室を“キケンな密室”に変えた・・・。
 

 
今ごろになって、勝手な解釈をふくらませてしまったみたいで、

失礼いたしました。またお目にかかれる折まで、

どうぞお身体お大切に!
                              

                                小沢なな子
                 


                     ○


小沢なな子様

 
  お手紙、拝読。
 

  あなたが今もおぼえていらっしゃる「メイソウ」のこと、

少しお話しておきましょうかーー。
 
 

  あなたもご存じだったでしょう?私の教室の、あの黒板には、

いわば、“隠し扉”的なものがしつらえられていたこと。その扉の奥の

スペースに、私は、自分専用の小さな棚とお茶のセットを置いていました。
 

 
  そう、その棚には、お茶にぴったりの“あるもの”が、

常にたくさんしまってあったのです。オトナだろうがコドモだろうが、

誰だって、空高く意識を集中させて、大気圧の向こうに呼びかける

ためには、ちょっぴり余分のエネルギーを摂取しなければなりません

からね。もちろん、2年5組の生徒たちも。
 
 

  夜色のカカオ、昼色のクコの実、翡翠色の虫の粉・・・

色々調合して、私がつくった“あるもの”が、前頭葉をぐるっと回って、

10分くらい経つと、ひとりでに、しっかりした意識の土台になる。

そうなると、子どもたちは、次々と教室の天井をすりぬけて、ゆっくり

大空へ舞い上がっていく。笑い声をあげて、好きな雲のまわりを漂って。

ひとしきり漂うと、全員自分の椅子に、自分の力で、ちゃんと帰ってきました。
 

 

  でも、それは、もう、むかしのこと。私はもう、あの眼鏡だって

かけていないのです。秋の夜風が湿った瞼の上をひんやり通って、

鏡の中にすい込まれていきます。
   
 
  少し長めのお返事になってしまいました。

では、なな子さん、またお会いいたしましょうね。おやすみなさい。
                             

                                   谷山一子



p.s.統計上では、10歳未満の空中浮遊体験の記憶は、その後につづく

    生活のなかで、時々役に立ったり、立たなかったり・・・。

   まぁ、主に大人の眼精疲労などは、この記憶の上にかろやかに、
   
       そして密やかに、全部のっけてしまえばいいんです。




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Day By Day 

 


 「今、私が歌いたいうた100」




2.♪Day By Day (1945)  


                作詞 Paul Westo
           作曲 Axel Stordahl ,Sammy Cahn      




 真野恵介は、吉田多摩子に、あくまでも軽い感じでたずねる。
  

  「ダイジョウブ?」

こむら返り。正式に言えば、腓腹筋痙攣(ひふくきんけいれん)。突然これが

起こったときには、はじめはとにかく息を止めて、何もしゃべらず、しばらくじっと

痛みに耐えているしかないのかもーーって、吉田多摩子は思っている。

多摩子の場合、ここですぐにパニックなんかになって、のたうちまわったり

しないように十分気をつけなければならない。意識が動揺すると、筋肉もさらに

興奮するもので、症状はどんどんエスカレートしてしまう。へんに自力で治そうと

するのはもっと危険なのである。かえって患部そのものを拡げてしまうことにも

なりかねないから。しばらくしたら、ゆっくり深呼吸。なるべく安静の体勢を

持続させて、焦らずに時をおく。


   「大丈夫?」
 

 今度はやや心配そうに聞いてみる、真野恵介。今、稽古場の床にごろんと

転がって小さくまるまっている吉田多摩子は、ピンクのジャージの上に、グリーンの

パーカーをひっかけて、なにかおちゃめな感じになってる。だが、よく見れば、

ひたすら痛みをこらえるその表情には、むしろハードボイルドな影さえただよう。

眉間にあらわれた一本のタテ皺が、みるみるうちに深くなり、いかにも苦悩する者

という風にもみえてくる。けれど、そんな多摩子をぼんやり見下ろして、恵介は

やっぱり暢気なような言い方をするのである。「大丈夫だよ。じっとしてればそのうち

ゼッタイ治るからねぇ」多摩子のケータイに来たメールを、代わりに恵介が

読み上げる。「えーと・・・〈小憎たちが暴れています〉・・・だって」今夜、多摩子の

二人の息子たちは母と実家にいる。5才の、一卵性双生児である。「〈おうちに

帰りたい、と言っています〉・・・だって」ここで、多摩子のあたまの上に、誰にも

見えない吹き出しが出る。
 

 【あぁ、魔法は解けてしまったみたい・・・】

駆け回る双子の5才児を静かにさせる魔法ーーというのが使えるのだと、

多摩子の母は常日頃から自負している。ただし、効き目がもつのはきっかり

15分、それ以上は何をどうやっても無理、とのこと。ふいに、真野恵介が、

窓のほうを眺めながら小さくつぶやいた。

 
 「また、戻って来てよ」

主に双子問題(?)なんかのために、この公演が終わったら、吉田多摩子は

劇団を去ることに決めている。という事実は、真野恵介にしかまだ告げられて

いない。
                 
 
                   ○
 

 
 真野恵介は、ちっぽけな航空会社の飛行士だった。空を飛んで10年目の夏、

飼い猫を失う、交通事故で。それから、空は猫の面影で充たされた。やがて、

猫の形がすっかり空に溶け込んでしまった頃、恵介は妙にハッキリした確信に

押されて、朗読劇の世界にとび込んだ。この稽古場に来ると今も、自分が

知らなかった言葉の航路が、目の前にスーッと開かれていく感じがする。ここから

なら、しずかな星々のあいだを渡って、もう一度猫に会いに行ける。
 

 (そういえば・・・)
 

 結婚前、恵介の妻はデートの待ち合わせに遅れることを、「星になる」と

言ったっけ。あの頃は、「星になる」のはたいてい自分のほうだったのだ。

もしかすると、今もーー。そう、たった今だって、自分は吉田多摩子の痛みと

沈黙のはるか上空に、たよりなく浮かんでいるだけみたいに思える。これは

これで、ある意味「星になっている」気分だ。チタン縁の眼鏡を外して、グレーの

Tシャツの裾でレンズを拭く。それから、今まさに沈黙の淵にある多摩子の傍らの

床に、ゆっくりと腰をおろす。一瞬、多摩子のツムジがぱっとピンクに輝いた。

(というか、「輝いた」と恵介は思った。もちろん、そのツムジからまた現われた

例の透明な吹き出しは、恵介には見えていない)
 

 【ふむ、カンタンはムツカシイ。ムツカシイはカンタン】
 

 今度の吹き出しの中に入っていたのは、多摩子がよく聴くソング・ライターの

カーリー山田(推定98歳)のつぶやきだった。
 


 【カンタンはムツカシイ。ムツカシイはカンタンーー確かにその通り。そう、ワシの

 場合、音と言葉は、ワシの中でいつも〈待ち合わせ〉しとる。若いカップル

 みたいにじゃ。それで、しばしばこの二人のどっちかが、すごく遅れてくる。

 けれど、二人は別に気にしない。どうしてかって?それは、うーん、つまり、

 〈待ち合わせの場所〉っていうのは、待ち合わせをした時点で、本当はもう二人

 だけのものになっているんじゃ。ってことは、二人はそれぞれの意識の中で、

 もうすでにそこを通り過ぎてしまっているともいえるわけで、そうすると、
 
 その場所は、〈二人がもうすでにいない場所〉ともいえるわけなんじゃ。

 (そこには、互いがかつて思い描いた、未来の痕跡があるだけ)それでも、

 ワシが歌えば、二人はどこかできっとまた出会えることになっとる。というか、

 ワシが歌うたびに、二人は何度でも初めて出会うんじゃ。】
 
 

 この完全に透明な、ちょっと偏屈な吹き出しは、たった今、さらに深まった

吉田多摩子の眉間の皺とは関係あるはずもなく、ここで、真野恵介は、自分でも

唐突に思えるような、それでいて完璧ともいえるようなあくびを一つした。それから、

寝転んだ。しばらく、こうして天井を眺めていよう。多摩子のこむら返りが治るまで。


 

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『敦』とトラヱさん


お休みしていたブログ、またはじめます。
どれだけつづくかな?


『 今、私が歌いたいうた100 』




1.
♪Desafinado  (1959)
               作詞  Newton Mendonça  
               作曲  Antônio Carlos Jobim
 

 

  私は、クマヱ。妹は、トラヱ。昭和一ケタ生まれのニンゲンの姉妹です。父は、
古風で頑固一徹。とはいえ、どういう考えから、あの時代に、こんなイカつい、
ケモノ系の名を女子に与えたのかーー幼い姉妹は、折りに触れては訝しんだもの
です。どうせなら、何かもう少し可憐な生物の名をつけてもらいたかったなと
思ったりもしました。まぁ、それで、私たちは妙齢になると、それぞれに
琴子・笛子と自ら名乗り、当面の問題解決をはかることにしたのです。
                                

                    ○
 

 「琴子」としての私の人生は、先ず「G演劇研究会」というものに所属する
ところから、始まりました。あの頃はといえば・・・下級生はみな、
〈基礎体力〉をつけるべく、映画の蜘蛛男式に、高いコンクリートの塀に
ピタッと貼りついて向こう側へ飛び下りるというような訓練を日々やらされて
いました。上級になると、私は小さな地下劇場の舞台に、時々立ったりしました。
 そのころ、妹のトラヱも、同研究会に入会。「笛子です!」って、あの子は
スムーズに自己紹介していましたっけ。歌唱指導のK之介さんは、実は
ピアノはあまり上手とはいえない感じでした。そのうえ、ある日なんと、
古いクロイツェルのピアノの蓋がパタンと落ちてきて、鍵盤上の彼の指を
まるでマンガみたいに噛み砕いてしまった。泣きそうなK之介さんをあの子が
すぐに近くの総合病院へ連れて行って、翌日には、二人とも私たちの目の前
からいなくなっていました。
 しばらくして、私宛てに届いた手紙には、あの子とK之介さんはボストンに
いること、もうすぐ子供が生まれること、ここでずっと暮らしていくことが、
あぶり出しみたいな薄い茶色のインクで綴られていたの。その文字には、
いつものトラヱの、あの暢気な調子のしゃべり方がまるごと載っかっている
みたいにみえて、その瞬間から、私はもう、不思議に落ち着いた気持ちに
なっていました。
                

                    ○
 

 私は、大手メーカーの風呂掃除洗剤のCMに2回登場。やがて、自分の
劇団(団員数1名)を立ちあげました--それが、えーと、何年前、いえ
何十年前の話だったかしら?今日は、薄緑色の空に、太った水滴が
いっぱい貼りついているのが、鬱陶しいような。それでいて、どこか愉快な
ような。これから、天気がうんと崩れるらしい。
 
                    ○
 

 夕方には、私の息子のK一郎が出張先の外国から帰ってきます。え?たしか、
ボストンだったと思うけれど。K一郎の父親は、やはりK之介さんです。
いつだったか、以前、K之介さんがお稽古場で言っていたわ。「あのね、
歌い方っていうのは、出会い方なんだよ。きみは今日、この曲とどんなふうに
出会う?」「どんなふう・・・って?」私は彼の横顔をちょっぴり不服げに
眺めました。「琴子さんはたった今、この曲のはじめの音を待っているね」
 クマヱの私は何を待っているだろう?この頃時々考えてみるのです。生物は、
結局、ニンゲンだってドウブツだって、みないつも何かを待っているのだと思う。
先日、妙な噂を聞きました。妹のトラヱが、遠くヒマラヤ辺りのほうに仲間と
暮らしているって。真夜中になると、あの子は激しく歌うのだといいます。
メタリックにくぐもった大気の膨らみの奥から、夏の燐光だけをいっぺんに
かき集めては、もう一度まき散らして。それにしても、一体なぜ、ーー?たぶん、
今、そういう時代が巡ってきたから。あぁ、あの子はいつのまにか、はりつめた
時間の表面張力になって、くり返される一日一日を包み込もうとしていた
のでしょうか。
 
                   

                    ○
 

 
  「琴子さーん!」
鼠色のツナギの作業服を着て、バケツをもった女の人が誰かを夕食に
呼んでいます。(あんなに大きな声で誰を?)私は、クマヱ。クマのクマヱ。
そうそう、これから私、郵便局に行って大事な小包を出してこなきゃいけないん
だったわ。でも、どうしてかしら。何本もの鉄の棒が格子状に
なって私のまわりをすっかりとり囲んでいるんです。

 
                       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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野村萬斎構成・演出の『敦』の再々演を6月に観ました。
中島敦の『山月記』と『名人伝』が、スペクタクルになって、
とてもおもしろい舞台。初演のときから、大好きでした。
詩人李徴の“悲しみの虎モード”に、
映像の解析技術に支えられた、どこかブラジリアンな身体が
映ってみえる気がして、
たぶん、
李徴は、調子はずれ(デザフィナード)と思ったり、
萬斎氏が、父・万作氏のふわふわの白髪をとかす音がきこえる気がしたり、
どこにもない時間が、そこにあった。
9月には、『解体新書その弐拾五』で、あの時間の中が透視されて、
なぜかふいに、私はトラヱさんを思い出しました。



 

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